「一年の計は、穀を樹うるに如くは莫し」が寛司『管子』権修篇にあります。
「一年之計、莫如樹穀。十年之計、莫如樹木。終身之計、莫如樹人。」です。
一年で実りをえる計画としては(一年で実る)穀物を植えるのがよい。
十年で実りをえる計画としては、木を植えるのがよい。
一生涯の計画としては、優れた人を登用するのがよい。
といったところでしょうか。
おそらく、この言葉を元にして様々なバリエーションの言葉が言われています。
「一日楽しみたければ 花を活けよ、
一年楽しみたければ 花を植えよ 、
十年楽しみたければ 木を植えよ、
そして百年楽しみたければ 人を育てよ」
「一年先を楽しみたいなら花を育てなさい、
十年先を楽しみたいなら樹木を育てなさい、
その先を楽しみたいなら人を育てなさい。」
「一年楽しみたければ、麦を育てなさい。
十年楽しみたければ、木を育てなさい。
百年楽しみたければ、人を育てなさい。」
私のいた研究室に上の図のような紙が貼られていました(これは作ったものですが)。人を育てることが大事だと思っていますので、そうだよなぁと思います。
よく考えるのですが、人は皆死にます、いずれみな死にます。何が残せるか。
業績や名を残せる?それに意味があるでしょうか。死んだらあっちに持って行けるわけでもありません。誰かの記憶に残る?記録に残る?それもまぁほぼいずれは廃れます。それどころか人類はいつか滅びます。宇宙も消滅します。
財産や金品なんて、それらに比べても弱い。
では全て投げやりで、生きていることに意味は無く、何も残さず自由気ままに生きて死ぬのがよいのでしょうか。まぁそれはありですがそれだけだと少々虚しいようにも思います。
結局まずは生きている時間を大事にし、その時に自分も楽しむ、周りも楽しくしてもらう、生きている社会をよくしてみる、このあたりが人生を賭ける価値がまぁあるもの、その当たりの妥当なラインではないでしょうか。もちろん人によりますけどね。
そして、少し先の人類に貢献するには、人を育てておくこと、でしょうか。いずれ人類滅びるんだし、めちゃくちゃでもよい、という意見もまぁ、実は合理的とは思いますが、人類として生まれてきたのですから、人類によいことをと思う方が、健全であると評価される場合は多いかと思います。
人が美しさやすばらしさを感じる対象は、シンプルな真理であったり、自然であったり、人のなしたことや作品であったりすることも多いですが、人のなす技や積み上げてきたものにも感じることがありますよね。
人類もいろいろと積み上げてきていますし、そこにすこしなにか積んでおくのもよい、と思います。
人の一生は長くても百年内外と思いますが、次の世代にバトンを渡す、それそのものがある意味生きる意味と捉えることも、まぁありかなと思います。その際に、何かをちょっとくわえるとしたら、ものや名などを遺すのではなく、バトンを渡す人をすこし後押ししてあげることなのかもしれないと感じるわけです。
どんな分野でも人が育っていないと分野ごとなくなります。少なくとも衰退します。今日本も衰退国家となりつつありますが(後進国になるのではないですね、一度のぼったと考えるなら、衰退国と表現するのが妥当でしょう)、人を育てないと加速度的に崩れていくようにも思います。
なにも投げやりなわけでもなく、しかし根拠なく強がるのでもなく、たんたんとなすことをなし、次の世代を育てる。それがなんとなくよい生き方かもしれないなと思うことがあります。